http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150922-00050162-yom-soci
「白紙撤回」された新国立競技場を巡り、日本スポーツ振興センター(JSC)が今年1月、総工費が3000億円を超えるとの見積もりを建設会社から伝えられながら、「ゼネコンの言い値だから下げられる」と判断していたことが分かった。
世界中どこでも見積もりのやりとりは熾烈だけど終わってから値切ってくるのは日本だけだ。出す方もそれ前提でやってる場合も多いしもはや商習慣。手前の値切りがどんなにえげつなくても、終わってから揉めないほうが気持ちいいのになぁ〜
「終わってから値切ってくるのは日本だけ」って話の続き:
帰国してもっとも感じたのは日本の持つ村社会感。身内で仕事を回しあうので見積もり自体がとても緩い。米の場合はどこまでいっても相手を信用してない。だからこそ見積もりが契約書としての重みを持つ。もちろん程度の差はあります。
先日、東京各地で撮影をしたんだが、基本なかなか撮影用の道路使用許可って難しい。では許可なしで撮ったら怒られるかというそうでもない。ところが許可ありでも苦情がきたら中止にしなければいけない。つまりルールを守っているかどうかではなくて社会的に迷惑をかけているかどうかという点が重要。
ルールで縛るのではなく、常識で縛るのだ。だからこそ行儀やマナーにうるさく、逸脱した人にたいして”空気”による圧力を加える。読めない場合は身内認定を外される。法治ではなく人治社会と言われる所以だよな、、、
安保問題もまさにそう。改憲かどうかでもめるならともかく解釈でもめるってことは、つまり国民全体の空気を決めましょうってことだ。白黒はっきりな米なんかには意味不明だろう。でもそれは良くも悪くも世界的には若干理解不能な寝技外交があってもいいんじゃないかとは思う。中国やロシア、さらにはアラブの外交だって相当にめちゃくちゃだ。自分の利益と都合を全面的に押し出して相手とぶつかって落とし所を見つける。それが”交渉”なんだと思う。
とはいえ狩猟民族や遊牧民式だと交渉決裂したら移動すればいいが農耕村社会の悲しさで、喧嘩をしても同じ場所に住んでいるので、どうしても妥協点探しが早い。
ってなふうになんちゃって文化人類学も交えて考察すると面白いですね。
極論すると隣村の見積もりは信用ならねぇ、値切って値切って値切り倒してびた一文儲けさせんな!でもおらが村の庄屋の息子の晴れ舞台にはご祝儀代わりにどーんと仕事振ったれってことです。
「見積もりなんて飾りです。庶民にはそれがわからんのですよ」
「終わってから値切ってくるのは日本だけ」って話の続きの続き:
固定化された村社会では行き場がないので、過酷な値切りをされても交渉決裂できない。なぜなら逃げ場がないのでその後の村での立場を危うくするから。騎馬民族や遊牧民族のリーダーが約束を反故にすればそのリーダーは二度とチームを組めない。
あ、ちなみにヤマト魂とかサムライスピリッツとかって言っていますが、日本人の多くは五代も遡れば7割以上が農民です。侍は1割以下。豪農もいたとはいえ祖先の半分以上が水呑百姓のくせに急に武士道とか、、、なんてね。
江戸時代という身分も所在も固定された時代が長かった日本では領主や国王といった権力者がころころ変わったヨーローッパや戦国時代とは違って被支配者である農民たちの立場は弱い。逃げられないからだ。戦国時代の農民は逃散といって結構簡単に逃げたり移動したりしたらしい。
だからお上から降りてきた公共事業の予算を村で回す。割り当てが少ないと言って怒って仕事を断ることはゆるされない。やるという前提には揺るぎはないのだ。参加は強制だし、ギャラも言い値だ。
なのでみなさん予算が折り合わないときはスケジュールを理由に断るというのが業界らしい。『やりたいのは山々なんですが、どうにもスケジュールが、、、』ってヤツです。
この説は若干妄想入ってるんでご使用にはご注意を、、、
まあ、いろいろ言っておりますが、日本のやり方がすごく嫌いかっていうとそうでもないです。特に我々のような完成品が不確かなものを作っている場合においてではありますが、、、まぁ職人職の方々のギャランティーは守られるべきとも思いますから、難しいところではあります。