先日の「公共の場でニンジンを洗って食べた外人への違和感」に関して
FBでちょっと盛り上がったので再考してみる。
FBでちょっと盛り上がったので再考してみる。
もっとも多かったのが
「別にいいんじゃない。自分はしないけど」だ。
で、この何故しないのか?
を突き詰めると育った環境によるのでは、
つまり公共のマナーとは躾けと共同体による同調圧力なんではないだろうか。
つまり公共のマナーとは躾けと共同体による同調圧力なんではないだろうか。
祖父母、親、親戚、学校などで、他人様の前でものを食べるのことは
”はしたないこと”だから
”慎まなければいけない”
と教えられ躾けられる。
と教えられ躾けられる。
でもこれはある程度の家柄と地域による。
つまりいわゆる”育ち”の良さだ。
米国でもスーパーのお金を払う前に食べちゃう人いるけど
これだってハイクラスの人はしない。
情報が行き渡った上に格差が広がって中間クラスが下がったことで、
社会全体に育ちが悪くなった。
要するに民度が低いほうで平均化した。
そしてこれは世界的な傾向な気がするです。
法律で決めるほどでもないけど守ったほうが快適だというのが礼儀作法なんですよね。
社会や属するクラスタによってその線引きが違うからややこしいんだけど、、、
世界全体的に”誰も困らないからいいじゃん”となってきているような、、、
他人に不快感を与えないということは理由としては大事だ。
強引にまとめると
「公共の場でニンジンを食べることへの違和感」は
”育ち”に起因する部分が多い問題である。ですかね。
昔はお節介なオバさんやおっさんが注意をしていたんでしょうけど、
今時はだれもそんなことしませんからね、、、
なんで家庭で学校で会社で教えてあげましょう。
「それはしたないですよ」
”Can't you behave?”
追記:キュウリならいいのか?という反論は受け付けません。
元の書き込み:
コンビニで買ったらしきニンジンを飲む用(?)
の水道で洗ってボリボリ食べてる外国人ランナー(?)。
常識ある日本の大人はしないと思うが、
これをするべきではない理由を外国人に論理的かつ簡潔に説明することは難しい。
移民どころか観光客が増えることはそういう小さな(?)が増えることでもある。
米住時代はみんながみんな自由すぎて気にならなかったなぁ。
昔、米人に寿司には醤油を直接かけないんだよと教えたら、
「あぁ、俺たちがビールをコップに注がないで瓶や缶から直接飲むのと一緒で、
明快な理由はないけどなんとなくしないことってあるよね」
と言われて、ちょっと違うと思ったけど、
めんどくさいので「そう、それそれ」と言ったことを思い出した。
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